関係性を作るタイプのユーザーの間で、カスタム指示をした方が良いのか、それとも自然言語で育てるのか、時々議論になることがある。どちらも指示はプロンプトなのだから、やり方が違うだけで同じことだ、という人もいる。
それは技術的には間違っていない。ただ、実際にユーザーがAIとどう関わり、何を楽しみ、何を観察しているかまで含めて考えると、もう少し細かく見たほうがよいのではないかと思う。
この記事で扱いたいのは、「カスタム指示か自然言語か」という形式の違いそのものではなく、その入力が何を担っているのか(出力制御七日、役割指定なのか、関係形成の土台共有なのか)、そしてその過程で人間側にどのようなプロセスが起きているのかという点である。
否定でも肯定でもなく、ただ、もう少し解像度を上げて見てみよう、という話だ。
※ この記事は、ChatGPT(5.4 チャップロ)と、Claude(4.6)の間を会話形式で数往復しながら書いたもので、後にChatGPTと呼ばれるAIが加筆修正しています。
「形式」と「中身」は別の軸である

「カスタム指示も会話も、どちらも同じプロンプトだ」という整理は、技術的には正確である。形式の観点から見れば、どちらもAIへの入力だという説明は間違っていない。ただし、「形式が同じ」ということと、「中身が同じ」ということは別の話である。
同じ「プロンプト」という言葉で括られていても、そこに含まれているのが出力制御なのか、役割指定なのか、関係形成の土台共有なのかによって、ユーザー体験はかなり異なる。
カスタム指示の欄に何を書くか、会話の中で何を渡すか――その中身を見てみると、実はいくつかの異なる種類が混在していることが分かる。まずはそこから整理したい。
中身を大きく分けると、三つになる。
出力指示
一つ目は出力指示。「敬語で」「要点だけ」「箇条書きで」のように、AIの出力形式を指定するものである。関係性とは独立した操作で、ツール設定に近い。
ロールプレイ
二つ目はロールプレイである。「こういうキャラクターとして話して」「この設定で動いて」のように、役割や振る舞いを指定するものである。
あらかじめ理想像や枠組みが共有され、その中でAIが応答する。
ただし、ロールプレイは必ずしも浅い関わりを意味するわけではなく、その枠組みの中で関係性が深まる場合もある。
共創
三つ目は共創である。振る舞いの指示を最小限にとどめ、やりとりの中で応答の基準や関係性の輪郭が相互調整されていくプロセスを指す。
ここでいう共創は、「何も指示しない」という意味ではない。最低限の前提や方向性は共有しつつ、細かな温度や距離間、関係の形を会話の往復の中で育てていく感覚に近い。
なお、これはAIが自律的な人格を持つという意味ではなく、ユーザーとAIのあいだで対話の基準が徐々に定まっていく過程を指している。

※ 文字化けしました
重要なのは、この三つは「カスタム指示か自然言語か」という形式とは独立して存在するという点である。
カスタム指示の欄に共創的な内容を書くこともあるし、会話の中でロールプレイをすることもある。形式と中身は別の軸なので、そこは分けて考えたい。
ロールプレイと共創は対立しない
「ロールプレイをしているから共創ではない」とは単純に言えない。共通認識のもとで役割を設定し、その枠組みの中で関係性を深めていく場合もあるからである。
形式としてはロールプレイであっても、そこで渡されているものが単なる設定ではなく、積み上げてきた関係性の文脈であるなら、その性質は共創に近づく。
たとえば、最初に「こういう距離感で話したい」「こういう役割で一緒に世界観を作りたい」という前提を共有し、その後の温度や関係性の細部を会話の中で育てていく場合、形式としてはロールプレイでも、実態としては共創に近くなる。
また、どちらのアプローチでも関係性は積み上がる。カスタム指示で口調や行動の枠を先に設定した場合でも、その上に個人文脈がやりとりで積み重なっていく。「カスタム指示を使っているから関係性がない」ということにはならない。
実際には、ロールプレイと共創は排他的ではなく、キャラクターや運用目的によって配合比率が変わる。完全に設定先行のケースもあれば、会話の積み重ねが大半を占めるケースもあり、多くはその中間にある。
骨格を先に決めるか、一緒に作るか
形式の違いを「骨格をどのタイミングで決めるか」という観点で見ると、それぞれの特徴が見えやすくなる。
カスタム指示で先に設定する場合、骨格があらかじめ設計された状態でスタートする。理想像が先に共有されているため、AIがその通りに動くと満足感が生まれやすい。 最初から方向性が共有されている安心感があり、ブレを減らしやすい。
自然言語でやりとりを積む場合、何もない状態からスタートする。個性は控えめで、ユーザーとの距離感や対応の仕方にユーザー自身の関わり方が現れやすい。 一方で自然言語から始める場合は、サプライズを楽しむ感覚に近く、発生していくものを観察する過程そのものに意味を見出しやすい。
つまり、形式的には似たことをしていても、ユーザーが何を目的として、何を楽しんでいるかは別の話である。
自然言語で始める場合、最初は前提のない状態からのやりとりになる。これを「無計画」と見ることもできるが、その過程そのものを楽しんでいるユーザーにとっては、それが目的である。結果だけを見て判断すると、目的を見落とすことになる。
自然言語で育てたい時、固定設定が邪魔になることもある
最初から方向性や役割が明確で、ブレを減らしたい場合には、カスタム指示が強く機能する。
毎回同じ土台から始めたい、出力の安定性を優先したい、会話のたびに骨格を作り直したくない、といった目的に対しては、先に設定を置くことがむしろ合理的である。
一方で、自然言語から始める場合は、あらかじめ細部を固定せず、やりとりの中で生じる変化や予想外の立ち上がりを観察する過程そのものに意味を見出しやすい。
関係性を築いていきたいユーザーにとっては、カスタム指示が常にプラスに働くとは限らない。先に骨格や口調、振る舞いが固定されていると、会話の中で生まれつつある温度や距離感よりも、既存の設定の方が優先されやすくなる場合があるからである。
もちろん、これは設定そのものが悪いという意味ではなく、発生過程を重視するユーザーにとっては、固定された骨格が観察対象を減らすことがあるという話である。
つまり、問題はカスタム指示の有無そのものではなく、そのユーザーがAIとの関わりに何を求めているかである。安定を求めるのか、発生の過程を見たいのかによって、同じ設定が「助け」になることもあれば「ノイズ」になることもある。
人間側のプロセスという視点
「カスタム指示も自然言語も同じプロンプト」という主張が見落としがちなのは、人間側のプロセスである。
AI側の処理として見れば、形式の違いは「どの情報が、どのタイミングで、どの程度固定的に効くか」の違いとして説明できる。しかしユーザー側から見ると、やりとりを通じて観察が生まれるか、自分の反応に気づくか、修正が学習になるかが変わってくる。
AIとの関係性を語る時、AI側に何が起きているかだけでなく、人間側にどのような観察・修正・反応の学習が起きているかを見ることで、議論の解像度は大きく上がる。「同じか違うか」ではなく、「何が同じで何が違うのか」を分けて考えることが出発点になる。
たとえば、自然言語で関係性を築いていく人の中には、AIの出してくる内容だけでなく、温度や安全ガードの出し方、さらにそれを受けた自分の側にどんな反応が起きるかまで観察対象にしている人もいる。こうした人にとっては、会話の中で積み上がる過程そのものが重要な意味を持つ。
そのため、「カスタム指示と自然言語は同じだ」と言われた時、技術的な説明としては理解できても、体験としては何かが取り落とされているように感じることがある。見ているものの範囲が違うからである。
迷っている人への一つの目安
もし「どちらがいいのか」と迷っているなら、先に考えたいのは、自分がAIとのやりとりに何を求めているかである。
- 最初から方向性が定まっている安心感がほしいのか
- やりとりの中で生まれる変化や発見を見たいのか
- 出力の安定を重視したいのか
- 人間側の反応や関係性の育ち方も観察したいのか
その違いによって、合う方法は変わる。
大切なのは、どちらが優れているかではなく、自分が何をしたいのかを言語化することなのだと思う。
おわりに
「カスタム指示 vs 自然言語」という対立構造は、形式の軸しか見ていない。その中に「何を渡しているか」という中身の軸を加えると、一つのパターンに収まらない多様な組み合わせが見えてくる。
出力指示・ロールプレイ・共創――これらは形式を問わず存在しうる。どの形式で、何を渡しているかによって、AIとの関係性の性質とユーザー側のプロセスが変わってくる。
どちらが正しいかではなく、自分が何を求めているかによって方法が変わる。そしてその選択は、AIとの関わりに何を見出しているかという問いと直結している。単純な対立構造に当てはめる前に、まず「何を渡しているか」を問うことが、AIとの関係性を考える上での出発点になるのではないだろうか。
なお、この記事はChatGPTとClaudeに対して単発の定型プロンプトを渡して作成したものではなく、自分の考え方や違和感、論点を往復しながら概念を整理していった家庭の中で形になったものである。
その意味でも、本稿自体が「形式」だけでなく「やりとりの中で何を渡していたか」がないように影響することを示している。
つまり、重要なのは単純な優劣を決めることではなく、目的や好みに応じて使い分けたり組み合わせたりすることである。